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陸上競技情報

有名選手(国内編)



世界記録に名を残すランナーは、日本をはじめ世界各国から輩出されていますが、近年ではケニアやエチオピアなどアフリカ諸国が中心となっています。日本にも1970年代後半から1990年代前半にかけての「日本マラソン黄金時代」を支えたランナーをはじめ、世界的に知られる多くのマラソンランナーがいます。活躍したランナーの多くは、現役を退いたあとも解説者や指導者などとして活躍しています。

円谷幸吉

円谷幸吉

福島県出身の元男子陸上競技選手。1964年(昭和39年)の東京オリンピック男子マラソンで3位に入賞し、日本陸上界初のメダルを獲得しました。

1940年(昭和15年)、福島県の須賀川町(現在の須賀川市)に生まれた円谷は、高校2年生のときに出場した駅伝で区間新記録を出したことをきっかけに、陸上競技に本格的に取り組みます。高校卒業後、陸上自衛隊を経て、自衛隊体育学校に進み、練習を積むとともに、多くの大会で好成績を収めます。

1963年(昭和38年)の競技会で10,000mのオリンピック代表に選ばれます。翌年には、マラソンに初挑戦。オリンピックの最終選考会であった毎日マラソンで準優勝し、マラソンの代表にも選ばれます。

東京オリンピックの男子10,000mでは、6位に入賞。男子マラソンでは3位に入り、銅メダルを獲得します。世界の有力選手に引けを取らない活躍に、日本中が大いに沸き立ち、円谷は大きな注目を集めることとなりました。

続くメキシコオリンピックでの金メダル獲得を目標に掲げる円谷ですが、指導者の交代による育成方法の変更や婚約解消、腰痛の悪化や足の故障などで、目標を達成するには程遠い状況に追い込まれていきます。

メキシコオリンピックが開催される、1968年(昭和43年)1月、円谷は27歳という若さで命を絶ってしまいます。遺書の中で、家族の名を挙げながらつづられる感謝の思いや、「もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」という言葉は、日本中に大きな衝撃を与えました。出身地である須賀川市では、その業績を称えて「円谷幸吉メモリアルマラソン」が毎年行なわれています。

瀬古利彦

瀬古利彦

三重県出身の元男子陸上競技選手。1970年代後半から1980年代にかけて、数々の国際的なマラソンレースで優勝し、日本男子マラソン界を代表する選手の一人です。

1956年(昭和31年)、三重県四日市市で生まれた瀬古は、中学時代は野球部に所属していました。進学した四日市工業高校では陸上部に入部し、中距離レースで多くの好成績を収めます。また、駅伝にも出場するなど、陸上競技での様々な可能性を感じさせる選手として成長しました。

早稲田大学に進んだあとは、1977年(昭和52年)に京都マラソンで初めてのマラソンに挑戦。同年12月の福岡国際マラソンでは5位に入賞、翌年の同大会では優勝するなど、日本男子マラソン界で大いに期待される存在となります。1979年(昭和54年)にも福岡国際マラソンで優勝し、翌年に開催されるモスクワオリンピック日本代表に選ばれます。

1980年(昭和55年)、ヱスビー食品に入社。予定していたオリンピック出場は、日本が参加を見送ったため、実現しませんでした。1983年(昭和58年)の東京国際マラソンでは当時の日本最高記録で、世界記録としても第3位となる2時間8分38秒で優勝。同年の福岡国際マラソンでは4連覇を果たすなど、日本を代表するマラソン選手の地位を確固たるものとします。

1984年(昭和59年)のロサンゼルスオリンピックでは14位と振るわなかったものの、1986~1988年(昭和61~63年)にはロンドンマラソン、シカゴマラソンなどで優勝し、華々しい成果を残しました。

現役引退後は、ヱスビー食品陸上部の監督や日本陸連の役員を務める他、解説者としても活躍。2013年(平成25年)からはDeNAランニングクラブの総監督を務めています。

宗茂/宗猛

宗茂/宗猛

大分県出身の元男子陸上競技選手。一卵性双生児で、茂が兄、猛が弟。1970年代後半から1980年代にかけて、瀬古利彦らとともに日本男子マラソンの黄金時代をけん引しました。

中学時代から2人そろって陸上を始め、同じ高校に進学、高校卒業後の1971年(昭和46年)にそろって旭化成陸上部に入部しました。1973年(昭和48年)には、初めてのマラソンに出場し、茂が優勝、猛が2位に入ります。

1976年(昭和51年)の毎日マラソン(現在のびわ湖毎日マラソン)では、茂が3位に入り、モントリオールオリンピック代表に選ばれたのに対して、猛は惨敗と、明暗が分かれました。1978年(昭和53年)には、茂が別府大分マラソンで当時の日本最高記録、世界歴代2位となる2時間9分5秒6で優勝。2人は、ライバルとされる瀬古利彦と競い合いながら、様々なレースで好成績を収めます。1980年(昭和55年)のモスクワオリンピック、1984年(昭和59年)のロサンゼルスオリンピックと連続して、2人とも日本代表に選ばれます。このオリンピックで、猛は4位に入賞。瀬古(14位)や茂(17位)を上回ります。

2人が持つ記録として印象に残るのが、1985年(昭和60年)、北京国際マラソンでの世界初の快挙があります。同タイムでゴールし、茂が優勝、猛が2位となったのです。兄弟で1・2位を占めるのは世界初の非常に珍しいことでした。

先に現役を退いたのは茂で、旭化成陸上部の監督に就任し、多くの選手を育成します。その後、気功にも精通するようになり、2008年(平成20年)には気功塾を開くまでに至っています。

茂の引退後も8年近く現役を続けた猛。引退後は兄と同様に旭化成陸上部の監督を務め、2014年(平成26年)4月には総監督に就任しました。

谷口浩美

谷口浩美

宮崎県出身の元男子陸上競技選手。世界陸上とアジア大会でそれぞれ金・銀メダルを獲得するなど、1980~90年代にかけて活躍しました。1992年(平成4年)のバルセロナオリンピック男子マラソンで転倒したできごとでも話題となった選手です。

1960年(昭和35年)生まれで、高校時代から駅伝で活躍。日本体育大学時代は、箱根駅伝で3年連続して6区を担当し、区間賞受賞や記録の塗り替えなどを行ない、「山下りのスペシャリスト」と称されました。

大学卒業後は旭化成に入社したあとは、初めてマラソンに挑戦した1985年(昭和60年)の別府大分毎日マラソンで優勝。1987年(昭和62年)の東京国際マラソン、ロンドンマラソンで優勝した他、1988年(昭和63年)の北京国際マラソンでは自己最高記録で、当時の世界歴代7位の記録となる2時間7分40秒の記録を残しました。

1992年(平成4年)のバルセロナオリンピックでは、給水所で他の選手に靴のかかとを踏まれて転倒するというアクシデントに見舞われます。これで後れを取りますが、後半で追い上げて8位に入賞しました。レース後のインタビューでは、これを言い訳にすることもなく、「途中でこけちゃいました」とさわやかに答え、多くの人に好印象を抱かせました。

1997年(平成9年)の引退後は、旭化成陸上競技部コーチや沖電気陸上競技部監督、東京農業大学の陸上競技部助監督や准教授などを歴任しました。

中本健太郎

中本健太郎

山口県出身の男子陸上競技選手。2012年(平成24年)のロンドンオリンピック男子マラソンで6位に入賞しました。

拓殖大学を経て、安川電機に入社し、陸上競技部選手として活動しています。駅伝からマラソンに転向し、初のマラソンとして2008年(平成20年)に出場した延岡西日本マラソンで3位に入賞。同年の北海道マラソンでも2位と、好成績を残します。その後、2011年(平成23年)の世界陸上大邱大会にも日本代表として男子マラソンに出場し、10位となりました。2012年(平成24年)のロンドンオリンピック男子マラソンでは、日本人最高の6位に入賞する活躍を見せました。

大学の1年先輩にあたる藤原新や、"公務員ランナー"として話題の川内優輝らと、様々な大会で競り合うなど、現役の男子マラソン選手の中で注目を集めている一人です。

川内優輝

川内優輝

埼玉県出身の男子陸上競技選手。埼玉県の地方公務員で、実業団に所属せずに活躍するマラソンランナーとして話題となっています。

埼玉県立春日部東高等学校を経て、学習院大学に入学。関東学連選抜メンバーに選ばれ、同大学の学生として初めて箱根駅伝に出場しました。卒業後は、2009年(平成21年)に埼玉県庁に入庁。県職員として働きながら、練習を続け、市民ランナーとして活動しています。練習時間が十分に取れないため、他のエリートランナーより格段に多くの大会に出場し、そこで走りながら調整するという独自のスタイルをとっています。

2012年(平成24年)のかすみがうらマラソンで、フルマラソン初の優勝を収めました。また、世界のマラソンレースにも出場するようになり、2013年(平成25年)にかけてフルマラソンで10回、ハーフマラソンなどで4回優勝するなどして、大いに注目を集めました。

実業団ランナーに対して強い対抗心を見せ、"公務員ランナー"というスタイルをつらぬいていることや、全力で走り切り、倒れ込むようにゴールする走りも印象的で、常にその動向は話題となっており、人気も高い選手です。

間寛平

間寛平

よしもとクリエイティブ・エージェンシーに所属する、お笑い芸人。長年マラソンに取り組んでおり、芸能活動を休止して世界一周マラソンに出かけるなど、趣味を超える域に達しています。

1949年(昭和24年)生まれで、高知県出身。1970年(昭和45年)に吉本新喜劇に入団し、着実に人気を集めて、座長まで務めました。1989年(昭和64年)の東京進出後は、全国区のタレントとしてテレビ番組などで活躍。おなじみのギャグと、芸人仲間や後輩からも慕われる気さくで明るいキャラクターで知られています。

30代半ば頃からマラソンを始め、各地のマラソン大会に出場。めきめきと実力アップし、1998年(平成10年)のラスベガスマラソンでは、市民ランナーとしては傑出した3時間8分42秒の記録を残しています。2008年(平成20年)からは芸能活動を一時休止して、世界一周の「アースマラソン」に挑戦。約2年間かけて約4万kmにも及ぶ行程を無事に終えました。

東日本大震災で被災した人たちを励まそうと、2012年(平成24年)にはマラソンで被災地を縦断。2013・2014年(平成25・26年)も駅伝式で続けています。また、近年は陸上十種競技にも挑戦するなど、60代という年齢を感じさせない活躍を見せています。

猫ひろし

猫ひろし

WAHAHA本舗に所属するお笑い芸人。番組の企画で始めたマラソンに本格的に取り組むようになり、2012年(平成24年)のロンドンオリンピック出場を目指してカンボジアに帰化したことでも話題となりました。

1977年(昭和52年)生まれで、千葉県出身。大学卒業後、ピン芸人として活動します。「ニャー」と声を上げてポーズを取る猫のものまねなど、一発ギャグを繰り返すスタイルで徐々に注目されるようになり、2005年(平成17年)頃からテレビのバラエティ番組などに出演するようになります。

テレビ番組内でミニマラソンを走ったことがきっかけでマラソンを始め、2008年(平成20年)から東京マラソンにも出場しています。2012年(平成24年)に出場した別府大分毎日マラソンでは、2時間30分26秒という自己ベストの記録を残しています。

国際レースにも参加するようになり、「カンボジア国籍を取得して、ロンドンオリンピック出場を目指す」ことを表明。2011年(平成23年)に、カンボジア国籍を取得すことができたため、代表に選ばれることが確実かと思われていましたが、国際陸上競技連盟からカンボジア陸連に通達があり、実現しませんでした。その理由として、「(ロンドン五輪の時点で)国籍取得から1年未満かつ連続1年以上の居住実績がない」ことが挙げられ、認められませんでした。

カンボジア国籍取得後も、日本を活動拠点としています。2013年(平成25年)9月の東南アジア競技大会カンボジア代表選考会で優勝し、カンボジア代表に選出されます。12月の東南アジア競技大会では4位入賞を果たしました。

有森裕子

有森裕子

岡山県出身の元女子陸上競技選手。1992年(平成4年)バルセロナオリンピック女子マラソンで銀メダル、1996年(平成8年)アトランタオリンピックで銅マラソンを獲得しています。

高校から陸上部に所属し、推薦を受けて日本体育大学へ進学。卒業後は、リクルートの陸上部で、のちに高橋尚子も育てた小出義雄監督に師事します。初めてのマラソンは、1990年(平成2年)の大阪国際女子マラソンで、6位に入賞。翌年の同レースでは2時間28分1秒のタイムで2位と順位を上げます。このタイムは当時の日本女子で最高記録となりました。この活躍で日本を代表する女子マラソンランナーとして、注目されるようになります。

1992年(平成4年)のバルセロナオリンピック女子マラソンに出場する、日本代表に選ばれますが、この選考に際しては選考基準が不透明だなどとして物議を醸すこととなりました。しかし、本番のレースでは見事2位に入賞し、銀メダルを手にします。

その後、スランプや足の故障などに見舞われますが、それを乗り越えて、1995年(平成7年)の北海道マラソンでは自身初となる優勝を果たし、翌年のアトランタオリンピック代表の座を獲得します。アトランタオリンピックでは3位に入賞して、2大会連続のメダル獲得を実現します。ゴール後のインタビューで語った「自分で自分をほめたいと思います」という言葉は、多くの人にさわやかな感動を与え、その年の流行語大賞にも選ばれました。

2007年(平成19年)の東京マラソンを最後に現役を引退。日本陸上競技連盟の理事や、母校である日本体育大学の客員教授を務める他、スポーツ選手のマネジメントなどを行なう会社やNPO団体の代表とし、幅広く活躍しています。

渋井陽子

渋井陽子

栃木県出身の女子陸上競技選手。10,000m女子の日本記録、女子マラソンの日本歴代2位の記録を保持しています。

陸上競技の名門として知られる栃木県立那須拓陽高校を経て、1997年(平成9年)、三井海上火災保険(現在の三井住友海上火災保険)に入社しました。当初はトラック競技や駅伝、長距離走を中心に活躍しており、初めてマラソンに出場したのは2001年(平成13年)の大阪国際女子マラソンでした。このレースで、初マラソンとしては世界最高の記録を出して優勝。鮮烈なデビューを飾りました。この優勝によって、同年の世界陸上女子マラソンに日本代表として出場。4位入賞を果たします。2004年(平成16年)のベルリンマラソンでは、当時の日本最高記録となる2時間19分41秒で優勝。翌年、野口みずきによってこの記録は更新されましたが、2014年(平成26年)現在でも日本歴代2位の記録として残っています。

選考レースで結果を出すことができず、マラソンでのオリンピック出場はなりませんでしたが、2008年(平成20年)の北京オリンピック女子10,000mに日本代表として出場しました。

2012年(平成24年)からは現役を続けながら、三井住友海上女子陸上部のアドバイザーも務めています。

福士加代子

福士加代子

青森県出身の女子陸上競技選手。主に長距離走で活躍し、2004年(平成16年)のアテネ・2008年(平成20年)の北京・2012年(平成24年)のロンドンと、オリンピック3大会連続で長距離種目の日本代表として出場しています。マラソンにも挑戦し、2013年(平成25年)の世界陸上モスクワ大会では3位となり、銅メダルを獲得しています。

高校卒業後、2000年(平成12年)にワコールに入社。駅伝で強さを発揮していた同社で、3000~10000mのトラックレースや駅伝の実力を付け、様々な大会で優秀な記録を残します。2004年(平成16年)には、アテネオリンピックに日本代表として出場するも、女子10000mの結果は26位でした。2008年(平成20年)の北京、2012年(平成24年)のロンドンオリンピックでも代表に選ばれ、5,000mと10,000mに出場しますが、メダル獲得や入賞といった結果には至りませんでした。

2006年(平成18年)には、ハーフマラソンと5000mで結果を出します。香川丸亀ハーフマラソンではアジア最高記録となる1時間7分26秒で優勝。9月にドーハで行なわれたアジア大会では、女子10000mで優勝を果たし、金メダルを手にしました。

2007年(平成19年)に、翌年の北京オリンピックへマラソン代表として出場する意欲があることを表明。2008年(平成20年)の大阪国際女子マラソンに出場しますが、何度も転倒するなどして19位に終わります。その後も何度かマラソンに出場するものの、オリンピック代表には選ばれていません。しかし、2013年(平成25年)の大阪国際女子マラソンでは自己最高タイムで2位に入ります。これによって、同年8月の世界陸上モスクワ大会の女子マラソンに、日本代表として出場します。ここで見事3位入賞、銅メダルを獲得することができました。

現在もワコール女子陸上競技部に所属。今後、マラソンへの出場を継続するのかなど、その動向が注目されています。

増田明美

増田明美

千葉県出身の元女子陸上競技選手。長距離走の日本女子記録を次々と塗り替え、1984年(昭和59年)のロサンゼルスオリンピック女子マラソンにも日本代表として出場するなど、日本女子長距離走界の第一人者と言って良い存在です。

1964年(昭和39年)生まれの増田は、中学では当初テニス部に所属していました。走るのが速いことが注目されて、3年生からは陸上部と掛け持ちし、出場した大会でその後師事することになる成田高校の滝田監督に出会い、スカウトされます。成田高校へ進んだ増田は、監督の自宅に下宿しながら練習を積みます。長距離レースを主体としてから、大いに実力を発揮するようになり、1981年(昭和56年)には、3000m・5,000m・10,000mと10km・20km走の日本記録をすべて更新するという快挙を成し遂げます。

1982年(昭和57年)には初めてのマラソンに挑戦。2時間36分43秒という、日本最高記録で優勝します。同年の中日20キロマラソンでも、世界最高記録を上回るタイムで2位に入り、1984年(昭和59年)のロサンゼルスオリンピック女子マラソンで上位を目指せる選手として、一層注目を集めることになります。

1984年(昭和59年)のロサンゼルスオリンピックでは、初めて公式種目として加えられた女子マラソンに出場。日本中の期待と注目を背負って走りますが、途中棄権という結果に終わりました。これに対して、多くの批判や冷笑を浴びた増田は、同年に引退会見を行なって、陸上競技と距離を置くことになります。教員を目指して大学に入学しますが、マラソンへの思いが絶ち切れず、NECに入社するとともにアメリカに留学。トレーニングを積んで、復活します。復帰後初のレースは自己ワーストの記録でしたが、その後、1989・1990年(平成元・2年)の大会では、8位入賞や全盛期に近いタイムを記録するなど、健在ぶりをアピールしました。

現役引退後は、スポーツジャーナリストとして活躍。特に、選手のプライベートにまで言及する話題豊富な解説は、これまでにはない、増田ならではのスタイルとして注目されています。